奄美の北部を巡る
- 2018/12/10
- 11:29
奄美の北部を巡る 
2018・12・2
「西郷翁 上陸之地」

安政五年(1858)西郷は鹿児島錦江湾に僧月照と身を投じたが蘇生し
島津二十七代斉衡の裁量により幕府に対しては、死亡したと届出で、菊池丸源吾と変名して、この地に潜居と命じられた。

「西郷松 跡地」
(西郷松)とは西郷さんが奄美大島に初上陸する際に船を陸に繋ぎとめるためにとも網を結びつけた松の木。
当時は樹齢100年を超える大木だつたが残念ながら2011年に立ち枯れて伐採されている。
西郷松の跡地は(西郷松本舗)というお店の敷地内にあり松のあった場所に記念碑がある。


「記念碑」

明治二十九年時の大島島司笹森義助氏は南洲翁の遺跡に記念碑のないことはさびしい限りであるとして、広く大島郡内に呼びかけ、郡民の賛同を求め喜捨を集めて記念碑建立を企画した。
碑文は勝海舟先生に依頼して碑文を書いてもらい、そのまま記念碑に彫刻したものです。
「愛加奈 碑文」

1859年(安政六年)、鹿児島から遠島になった西郷吉之助(のちの隆盛)と結婚した。


「南洲流 謫跡」
この家で暮らす。
菊次郎と菊草の二児に恵まれたが、三年後、吉之助は島を去り、やがて二人の子も西郷本家に引き取られた。
愛加奈は、この家でひたすら夫と子らに会う日を待ったが、明治三十五年八月、大雨の中畑仕事に行き、そこで倒れた。
享年六十六歳。

家の中にはゆかりの品が展示されています。
「 愛加奈」の名前が歴史研究家の原口良子氏により、夫・隆盛との子である西郷菊次郎の戸籍を調べた処ところ母の欄に
「アリカナ」と書いてあることが確認されたそうです。

2018・12・2
「西郷翁 上陸之地」

安政五年(1858)西郷は鹿児島錦江湾に僧月照と身を投じたが蘇生し
島津二十七代斉衡の裁量により幕府に対しては、死亡したと届出で、菊池丸源吾と変名して、この地に潜居と命じられた。

「西郷松 跡地」
(西郷松)とは西郷さんが奄美大島に初上陸する際に船を陸に繋ぎとめるためにとも網を結びつけた松の木。
当時は樹齢100年を超える大木だつたが残念ながら2011年に立ち枯れて伐採されている。
西郷松の跡地は(西郷松本舗)というお店の敷地内にあり松のあった場所に記念碑がある。


「記念碑」

明治二十九年時の大島島司笹森義助氏は南洲翁の遺跡に記念碑のないことはさびしい限りであるとして、広く大島郡内に呼びかけ、郡民の賛同を求め喜捨を集めて記念碑建立を企画した。
碑文は勝海舟先生に依頼して碑文を書いてもらい、そのまま記念碑に彫刻したものです。
「愛加奈 碑文」

1859年(安政六年)、鹿児島から遠島になった西郷吉之助(のちの隆盛)と結婚した。


「南洲流 謫跡」
この家で暮らす。
菊次郎と菊草の二児に恵まれたが、三年後、吉之助は島を去り、やがて二人の子も西郷本家に引き取られた。
愛加奈は、この家でひたすら夫と子らに会う日を待ったが、明治三十五年八月、大雨の中畑仕事に行き、そこで倒れた。
享年六十六歳。

家の中にはゆかりの品が展示されています。
「 愛加奈」の名前が歴史研究家の原口良子氏により、夫・隆盛との子である西郷菊次郎の戸籍を調べた処ところ母の欄に
「アリカナ」と書いてあることが確認されたそうです。
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