戻らないあの夏の日
- 2022/08/14
- 12:38
戻らないあの夏の日
2022・8・14
「1945・8・5」
8月5日から6日未明マリアナ諸島を飛び立つた92機が
前橋市街地を中心に焼夷弾723tを投下2万871戸の内1万1518戸が
全半焼に535人が死亡、600人が負傷したそうです。
当時小学校4年生。皆疎開をした中多分5~6人が学校に。
先生から(疎開をしないでえらいですね。)と言われ、今でも理由がわからない。
父は太田市で教職に、兄は海軍兵学校に入り、前橋空襲時には母と妹と私で
警戒警報の中母が妹を背負い、一台の自転車を押し少しの荷物を抱えた私と
避難した。
大勢の人が公園に避難した中、母は3人だけで利根川の近くの知人の防空壕に。
いざとな戸ったら、利根川にと言う事ですが、この判断が私たちの命を救った。


公園に避難した多くの方々は不幸にも命を落としたそうです。
防空壕の中で焼夷弾が絶え間なく投下され、壕の隙間から真っ赤な火が。


死を覚悟しました。
どの位の時が過ぎたか覚えていませんが、飛行機が飛び去り、暫くして家を訪ねたら、
見渡す限り焼け野原で何もなく、家も確認できなかった時、
(先生の家は3日間沢山の蔵]が燃え続けているあの家でしょう。)と教えられた。

一部屋全体にあったあの蔵書が全て灰になった。父は手元に置いて読むべきと本の疎開を拒んだ。
父の蔵書の中に、小学校の一年からまで終戦まで毎日日記をつけていた、私の日記も灰となった。
戦争に幼少時を、今またコロナに翻弄されていうに言われぬ重圧に身体は不調なに日々です。
記憶が薄れていく中も戦争の体験だけはしっかりと残っている。
2022・8・14
「1945・8・5」
8月5日から6日未明マリアナ諸島を飛び立つた92機が
前橋市街地を中心に焼夷弾723tを投下2万871戸の内1万1518戸が
全半焼に535人が死亡、600人が負傷したそうです。
当時小学校4年生。皆疎開をした中多分5~6人が学校に。
先生から(疎開をしないでえらいですね。)と言われ、今でも理由がわからない。
父は太田市で教職に、兄は海軍兵学校に入り、前橋空襲時には母と妹と私で
警戒警報の中母が妹を背負い、一台の自転車を押し少しの荷物を抱えた私と
避難した。
大勢の人が公園に避難した中、母は3人だけで利根川の近くの知人の防空壕に。
いざとな戸ったら、利根川にと言う事ですが、この判断が私たちの命を救った。



公園に避難した多くの方々は不幸にも命を落としたそうです。
防空壕の中で焼夷弾が絶え間なく投下され、壕の隙間から真っ赤な火が。



死を覚悟しました。
どの位の時が過ぎたか覚えていませんが、飛行機が飛び去り、暫くして家を訪ねたら、
見渡す限り焼け野原で何もなく、家も確認できなかった時、
(先生の家は3日間沢山の蔵]が燃え続けているあの家でしょう。)と教えられた。


一部屋全体にあったあの蔵書が全て灰になった。父は手元に置いて読むべきと本の疎開を拒んだ。
父の蔵書の中に、小学校の一年からまで終戦まで毎日日記をつけていた、私の日記も灰となった。
戦争に幼少時を、今またコロナに翻弄されていうに言われぬ重圧に身体は不調なに日々です。

記憶が薄れていく中も戦争の体験だけはしっかりと残っている。
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