戻らないあの夏の日
- 2017/08/06
- 10:19
戻らないあの夏の日
2022・3・7
( 2015・8・5のブログ記事を再び)
8月5日から6日未明マリアナ諸島を飛び立った92機が前橋市街地を中心に焼夷弾723tを投下
2万871戸の内1万1518が全半焼535人が死亡600人が負傷だった。
父は太田市で教職についており、兄は海軍兵学校に入り前橋空襲時には母と妹と私で警戒警報の中母が妹を背負い一台の自転車を押し少しの荷物抱えた私と避難した。



当時小学校4年生。みな疎開をした中多分5~6人が学校に(先生に疎開しないで、大変えらいですね。)と言われ、今でもなぜ疎開をしなかったのかはわかりません。
大勢の人が公園に避難した中、母は3人だけで利根川の近くの知人の防空壕に身を寄せた。いざとなったら、利根川にという事だったそうですが、この判断が私たちの命を救った。
公園に避難した多くの方々は不幸にも命を落としました。防空壕の中で焼夷爆弾が絶え間なく投下され、壕の隙間から真赤な赤い火

に死を覚悟しました。
どの位の時が過ぎたか覚えていませんが、飛行機が去り、私の家がどうなっているかわからないので、知人宅にお世話になることになりました。
2~3日過ぎて家を訪ねると、見渡す限り焼野原で何もなく、家も確認できなかったとき、(先生の家は3日間沢山の蔵書
が燃え続けているあの家でしょう。)と教えられた。一部屋全体が書庫になっていたあの蔵書が全て灰になった。
この後10日後に敗戦。負け戦ならもっと早く停戦出来なかったのか?
戦争を知らない今の大人たちに二度とこの過ちを繰り返さないで。
2022・3・7
( 2015・8・5のブログ記事を再び)
8月5日から6日未明マリアナ諸島を飛び立った92機が前橋市街地を中心に焼夷弾723tを投下
2万871戸の内1万1518が全半焼535人が死亡600人が負傷だった。
父は太田市で教職についており、兄は海軍兵学校に入り前橋空襲時には母と妹と私で警戒警報の中母が妹を背負い一台の自転車を押し少しの荷物抱えた私と避難した。




当時小学校4年生。みな疎開をした中多分5~6人が学校に(先生に疎開しないで、大変えらいですね。)と言われ、今でもなぜ疎開をしなかったのかはわかりません。
大勢の人が公園に避難した中、母は3人だけで利根川の近くの知人の防空壕に身を寄せた。いざとなったら、利根川にという事だったそうですが、この判断が私たちの命を救った。
公園に避難した多くの方々は不幸にも命を落としました。防空壕の中で焼夷爆弾が絶え間なく投下され、壕の隙間から真赤な赤い火



どの位の時が過ぎたか覚えていませんが、飛行機が去り、私の家がどうなっているかわからないので、知人宅にお世話になることになりました。
2~3日過ぎて家を訪ねると、見渡す限り焼野原で何もなく、家も確認できなかったとき、(先生の家は3日間沢山の蔵書



この後10日後に敗戦。負け戦ならもっと早く停戦出来なかったのか?
戦争を知らない今の大人たちに二度とこの過ちを繰り返さないで。

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